(13)
翌
朝
、次
郎
は
叔
父
隆
重
の
近
臣
達
に
連
れ
ら
れ
て
肥
後
の
国
に
向
か
っ
た
。
能
島
か
ら
関
船
(
後
程
戦
の
と
こ
ろ
で
説
明
し
ま
す
)
に
乗
っ
て
、
斎
灘
に
出
て
安
芸
灘
に
入
り
、
防
予
諸
島
、
中
島
の
北
側
を
通
り
、
屋
代
島
の
南
側
を
通
過
し
て
平
郡
島
と
上
関
の
間
を
通
り
周
防
灘
に
出
て
、
豊
後
国
東
半
島
武
蔵
(
現
在
、
大
分
県
武
蔵
町
、
大
分
空
港
の
近
く
)
で
関
船
を
降
り
て
陸
路
、
別
府
、
由
布
院
を
通
り
久
重
連
山
の
山
越
え
を
し
て
、菊
池
氏
の
勢
力
範
囲
で
あ
る
菊
池
市
(
現
在
の
市
名
)
に
到
着
し
た
。
菊
池
で
は
菊
池
武
重
の
庇
護
の
元
で
文
武
両
道
の
教
育
を
受
け
て
い
る
。
文
に
つ
い
て
は
法
楽
連
歌
の
「
さ
え
行
月
は
か
つ
ら
き
の
さ
と
」
と
詠
ん
で
い
る
。
武
に
つ
い
て
は
菊
池
は
山
間
部
で
あ
る
た
め
馬
術
、
剣
道
も
や
っ
て
い
た
と
推
測
出
来
る
。
又
、
菊
池
市
周
辺
に
は
川
も
あ
り
、
当
然
舟
遊
び
も
や
っ
た
と
思
わ
れ
る
。
次
郎
が
14〜
15歳
に
な
っ
た
時
に
、
菊
池
武
重
氏
は
次
郎
を
元
服
さ
せ
て
、
菊
池
氏
の
名
前
の
一
字
を
与
え
武
吉
と
名
乗
ら
せ
た
。
次
郎
は
元
服
し
て
名
前
を
武
吉
と
改
め
、
能
島
の
叔
父
村
上
隆
重
が
反
対
派
を
退
治
し
て
武
吉
を
当
主
と
し
て
迎
え
、
村
上
義
雅
の
後
継
者
と
し
た
。
こ
れ
で
、
能
島
村
上
の
当
主
し
て
の
村
上
武
吉
が
誕
生
し
た
こ
と
に
な
る
。
ど
う
も
似
た
よ
う
な
名
前
が
多
く
出
て
く
る
の
で
、
誰
が
誰
や
、
さ
っ
ぱ
り
分
か
ら
な
く
な
っ
て
き
た
の
で
、
簡
単
な
家
系
図
を
描
い
て
お
く
。