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病床について間もなく亡くなりました。母は、戦後新しい憲法を読んだ時の驚き
と喜びを、語っていました。これでもう日本は戦争することはない、人権という
のが尊重される時代になったと。平和憲法を守るという固い信念は晩年まで変わ
ることはありませんでした。

 

同時に母は、教育の恐ろしさも人一倍感じていたと思います。新しい教育基本

法を読んだ時、これこそが本当の教育だ、と感激したと話してくれました。自分
や父親が騙されたような教育は二度としてはならない、という思いが、後の家永
裁判、従軍慰安婦をめぐる教科書の記述などへの強い関心となり、批判となり、
また自分自身の教員としての行動に繋がったと思われます。

 

戦後、母はお見合いで結婚しました。実は母には好きな人がいました。のちに

再婚することになる人、藤村宏太さんです。お互いに結婚を望んでいたそうです
が、宏太さんの体が弱いという理由で家族から反対され、無理やり見合いさせら
れたそうです。母は見合い相手の所に行き、自分には思う人がいる、自分の方か
らは断れないので、そちらから断ってほしい、と頼んだそうですが、断られて、
宏太さんの所に行き、事情を話すと、宏太さんから、

「自分はご家族が言われるよ

うに体が弱い、あなたを幸せにする自信がない、その方と結婚してください」と
言われたそうで、泣く泣くお嫁入りしたそうです。

 

母が嫁いだ家は、その昔、南北朝時代に後醍醐天皇を擁護する本を書いた北畠

親房の末裔ということで、天皇陛下万歳の時代には、家の前を通る人がおじぎし
て通るような家だったそうです。母は、お姑さん(お舅さん?)が「うちの家の
前を通るのにおじぎせん者がいる」というのを聞いて、

「まあー」と思った、と話

していました。およそ人を差別しない母とは、合わない家風だったようです。愛
の無い結婚だったこともあるのでしょう、結婚生活はうまくいかず、母は私を連
れて家を出ました。

 

『神皇正統記』 北畠親房著 

1339年執筆 1343年修訂 (岩佐正校注 

岩波書店 

1975 (岩波文庫) ほか多数の版。 

でも人から聞いた話ですが、母は婚家のおばあさんやお姑さんを最後まで面倒

をみたようです。自分の実家にお姑さんを預けて学校に勤めていた母の姿を私は
覚えています。

 

離婚した母は、幾つかの中学校勤務を経て、安下庄高校の白木分校に赴任しま

した。白木分校は、この峠を下ったところの下田部落にあって、昼間の定時制高
校でした。農家の子弟が家の仕事を手伝いながら学ぶための4年制の高校で、農
繁期には休みになる高校でした。今はみかん畑にかわっていますが、当時は田圃
が一面に広がり、大池という大きな溜池があり、そのほとりに白木分校がありま
した。母はそこで家庭科の教師になりました。家庭科といっても、母はそれまで
料理をしたことがなかったそうです。そもそも、その時代、食べ物がなかった。