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料理などしようがなかった。それで、実家の母(祖母)が、ラジオから流れる料
理番組をメモしては母に渡していたそうです。母は西洋の栄養学を教えたり、戦
後出回るようになったピーマンとかの西洋野菜を使った料理を作って、バザーで
「西洋野菜を食卓に」と題した料理の展示をしていたのを覚えています。

 

私はこの頃の母が一番好きなんですが、母は太陽のように明るく朗らかで、よ

く歌を歌ったりハーモニカを吹いたりしていました。生徒たちに人気で、家には
よく大勢の生徒達が遊びにきていました。当時、母と私は下田のパーマ屋の二階
に下宿していましたが、6畳くらいの部屋に布団を敷きつめて、生徒たちが泊ま
ったことも覚えています。

 

その頃、母に偶然の出会いがありました。昔好きだった藤村宏太さんの家が、

なんと、パーマ屋の二軒向かいにありました。後で母から聞いたことですが、二
人は毎日、同じ時間に窓辺に立って、遠目に見つめ合っていたそうです。パーマ
屋の二階の窓と、二軒先の平屋の窓とで、手を振るでもなく、ただ見つめ合って
いたそうです。私はちっとも気が付きませんでした。宏太さんが時折うちに遊び
にくるようになって、私は大好きになり、母によると、私がお父ちゃんになって
ほしいと言うので、再婚したそうです。私が小学三年生の時でした。宏太さんは
すぐに私と養子縁組の手続きをして、父になってくれました。

 

父は穏やかでユーモアのある人でしたが、進歩的な考えを持った人でした。政

治的な活動をしてはいませんでしたが、家には歴史や政治や美術などの色んな本
がありました。母は父に勧められて、初めて色々な本を読んだそうです。ゴーリ
キーの「母」

「女一人大地をゆく」

「橋のない川」など読んだと母から聞いたこと

があります。父から受けた感化が、母の心の芯を形成したように思います。

 

しかし父は結核という病気を抱えていて、残念なことに病気が再発しました。

父は柳井の周東病院に入院しました。母は学校に勤めながら、日曜日には飛ぶよ
うにして柳井に見舞いに行き、夏休み春休みなどは病院に泊まり込みで看病しま
した。そのうち、油良の病院が完全看護になったということで、父を転院させ、
それからは毎日、朝は学校が始まる前に病院に行ってご飯を食べさせ、夕方は学
校からまっすぐ病院に行って夕飯を食べさせて、遅くに家に帰っていました。父
に栄養をつけさせるために、畑で野菜を作り、新鮮なお刺身なら食べるからと言
ってよく持っていっていたのを覚えています。

 

「先生は、雨が降ろうが槍が降ろうが、自転車を漕いで峠を越えて、毎日病院

へ通っていた。舗装してない道で、雨が降るとぬかるんでよく自転車ごと転げる
んよね

…」という話を人から聞きました。 

そんな母の一生懸命な看護も空しく、父は亡くなりました。その時のことは、

母の短歌にも歌われています。