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 『まだ言いたいことがあるんよ!』藤村英子著 

2016  p.127-140 

母はそれから、深い寂しさを抱えながらも、次第に持ち前の明るさを取り戻し

ていきました。盆正月には、帰省した卒業生たちがつぎつぎやってきて、わが家
はまるで同窓会の会場状態でした。母は卓球部の顧問を長らく勤めていて、卓球
部の合宿をわが家でやったこともあります。

 

母はずっと教職員組合に入っていて、ストライキもやっていました。しかし勤

務評定が始まったり、主任制が取り入れられたりして、次第にストをする教員も
減っていき、最後は母一人になったそうです。生徒だけは「先生がんばれ」と応
援してくれたそうです。教員が勤続

30年になると、記念の時計がもらえたそう

ですが、母の所には来ませんでした。退職する時になってそれが来たので、

「いり

ません」と言ったら、校長が困って「もらってくれや」と言われて・・結局、同
僚の先生が「人のいい校長をこまらせるなや。もらってやれや」というので、

「も

らってやった」と言っていました。

 

白木分校の生徒数が減って、廃校になることになり、母は廃校と同時に退職し

ました。母が三十年余りも、一度の転勤もなく白木分校に勤め続けてこれたのも、
組合運動のせいだったようです。でもそれは母にとって幸いだったと思います。

 

退職後、母は「沖縄の会」という、元社会科の先生が主催するグループに入り、

沖縄、台湾、韓国、中国などの戦跡を訪ねる旅行をしました。とても勉強になっ
たとよく話していました。新聞によく投稿するようになり、掲載されるのが生き
がいの一つのようでした。

 

一方で母は、公民館の手芸教室をしたり、家でも手芸を教えていました。地域

の人達が大勢母に習っていました。母が色々と政治的な活動をしていても、白い
目で見られることもなかったのは、きっと、地域の皆さんに親しまれていたから
でしょう。

 

また、いつ頃からか宮本常一の奥さんアサコさんと知り合い、仲良しになりま

した。アサコさんは、

「私が長生きしてよかったのは、藤村英子さんと知り合いに

なったことよ」と言われていたそうです。常一関係の人が家を訪れるようになり、
母は郷土料理の「茶がゆ」などを作ってもてなすようになりました。実は私は子
どものころから、茶がゆを家で作る母を見たことがありません。あれは皆さんを
もてなすための、にわか「茶がゆばあさん」だったようです。

 

このへんからは、皆様が知る母です。

 

こうして振り返ってみると、母の一生は波乱万丈でした。この時代に生きた人

の多くがそうであるように。その人生を、母は一筋に生きました。特に、憲法を
守ろう、平和を守ろうという気持ちは、頑ななまででした。父を思い、父を看病
することにおいても一生懸命でした。悲しい思いや淋しい思いはあっても、表に
は出ず、明るい楽しい母でした。そんな母が私は好きでした。