1章 修道院のシュレッティンガー 

 

第1章 修道院のシュレッティンガー

 

  

1 生い立ち 

 

 シュレッティンガーの伝記文献は決して多くない。バイエルン州立図書館所

蔵のシュレッティンガー文書(

Schrettingeriana)のなかの手書きの自伝

1)

『総合ドイツ伝記事典』のボイムカーの記事

2)

,へツケルや

3

ヒルゼンベック

の論文

4

などが主要な文献である。原資料としては「シュレッティンガー文書」

のなかに保存されているシュレッティンガーの日記,書簡などが貴重である

5

 

 シュレッティンガーはミュンヘン市シュトラウビングの病院司祭ヨーゼ

フ・シュレッティンガーに手紙を書き,お互い親戚関係であるかどうかを尋ね

たことがある。その返事によると,両者は単に親戚であるばかりでなく,同じ

貴族に源をもつという関係にある。彼の作成した系図でみると,カルヴィン派

の皇帝軍将軍まで遡ることができるという。この返書の末尾に押した家紋は相

当古いものらしく,縁のほうがすり減っている。ランズフートには,皇帝軍少

尉が寄贈したシュレッティンガー一族の恩給地もあるので,病院司祭はその権

利を主張したが,貴族証明がなくなったので認められなかったという

1797.2.18)。プファルツの旧家の流れといえよう。 

 マルティン・シュレッティンガーは

1772年6月17日,オーベルプファル

ツのノイマルクトの帽子職人の息子にうまれた。ノイマルクトはミュンヘンの

北方

138km,ニュルンベルクからは東南方向47km,レゲンスブルクからは西

北方向

72kmの町である。現在でも人口38,000人で決して大きな町ではない。 

父親ヨハン・マティアス・シュレッティンガーはフアルケンシュタイン出身,

母親ウアズラ(旧姓ルマー)はノイマルクト出身であった。妹の結婚式のこと

が記されている(

1797.5. 4)。 

長男マルティンは本来なら帽子職人になる運命にあったが,職人に必要な頑

健な体力がなく,精神は逆に早熟で,早くも5歳で印刷されたドイツ語はすべ

て読む事ができた。性格的に職人たちの荒々しい風習になじめず,結局職人に

なる道を選ばなかった。