『農漁村採訪録』の刊行に当たって

宮本常一先生の遺された調査ノートを刊行いたします。

これは周防大島文化交流センターで進めている「宮本常一研究」の一部

をなすものです。全体で何部になるか正確な見積もりは出来ませんが、第

一期五十冊が当面の目標です。

研究者の調査ノートをこういう形で公にするのは、あまり例のないこと

ではないかと思います。聞き書きを中心とした調査ノートやメモの類は、

他人には容易に判読できないものですが、宮本先生の調査ノートは、カタ

カナ主体の独特の細かな文字で比較的整然と記されており、殆どぶれがな

いので読み取るのはそれほど難しくありません。何よりも大きな特徴は、

話の筋道がきちんと立っており、聞き書きが錯綜していません。話を聞く、

その舵取りが上手だから話が混乱しないし、内容も正確なのです。先生が

非常に優れたフィールドワーカーであったといわれる理由が、ノートを見

るとよく分かります。ノートを写しただけで調査報告として通用するもの

が少なくありません。要するに資料としての価値が極めて高いのです。ノ

ートを印刷に付して発表する価値があると考えた第一の理由です。先生は

たいへん真摯な研究者でしたから、膨大な調査報告や論文を発表していま

すが、未整理の部分がまだたくさん残されています。大きな調査だけでも、

九学会連合調査に参加して行った能登、佐渡、下北があるし、淡路島のノ

ートもかなりの量があります。瀬戸内海の島々も周防大島もすべてが整理

され発表されているわけではありません。研究者としての宮本常一の真価

は、自身の手によってまとめられ公表された研究論文だけで充分だ、と、

いわれればその通りですが、その背後に、これから何年にも渉って刊行さ

れ続けるに違いない『農漁村採訪録』に示されるような努力の集積があっ

た事を知るのも意味のあることだと思われます。(田村善次郎)