-2-

とは確かだと思うが、

36年3月に出版されたという概報を宮本文庫で見

た記憶がない。〔注〕

ともあれ、宮本先生の漁民、漁村の研究に、この見島調査はかなり重要

な意味をもつものであったと思われる。それは『民衆の生活と文化』(米
山他編、未来社、

1978年8月)所収の「海洋民と床住居」その他、後年

の論考のいくつもに見島調査で得られた知見が引用されていることによっ
て窺える。

宮本先生による見島調査の直接の成果は、さきの『見島総合学術調査報

告』の他に、『萩付近』(私の日本地図

13、同友館、昭和49年、宮本常一

著作集別集として未来社から

2013年9月刊行)に百頁余のページ数をと

って示されている。そのほかにもエッセイふうの短文がいくつかある。な
お「見島に於ける漁村構造とその変遷」は「見島の漁村」と改題して著作

17に「宝島民俗誌」とともに収録されている。参照していただければ、

ノートだけを読むより得るところが大きいはずである。

「見島に於ける漁村構造とその変遷」の「おわりに」に「この報告は見

島漁業協同組合、宇津漁業協同組合で帳簿の披見をゆるされたものと萩市
役所見島支所にのこる諸記録、戸籍類を引用したほかはすべて聞書きによ
った。御教示をいただいた方々は河内松一(見島支所長)、金子良雄(見
島支所)、佐野徳夫(見島支所)、多田武一、多田義男(見島神社宮司)、
中村清次郎、多田竜介、福永新五郎、西山岩松(漁協組合長)、末吉良介、
北国新一、折戸鶴松の諸氏である」と記されている。これらの人々の世話
になり話を聞いたことは確かであろうが、これが話をきいた人のすべてで
あるとは断定できない。話者や話をきいた日時についてのノートの記述に
はあいまいなところがある。以下に掲げる調査時の日記が見島における先
生の動向をよく示しており、ノートの不備を幾分か補なうものになってい
ると考える。この日記は『宮本常一

写真・日記集成』から抜書きしたも

のである。なお、先にしめした「おわりに」にもあり、

37年の日記にも

筆写したと記されている、住民登録、壬申戸籍の類はこの翻刻には含まれ
ていない。今回翻刻した3冊の調査ノートとは別になっており、他の資料
に紛れて見いだせなかったのではないかと推測している。

〔注〕本書編さんの過程で『見島総合学術予備調査概報』(山口県教育委員会・萩市教育委

員会、

1961年3月)は周防大島文化交流センターが所蔵していることを確認した。