は
じ
め
に
「
四
境
の
役
」
(「
第
二
次
幕
長
戦
争
」)
は、
幕
府
軍
艦
に
よ
る
熊
毛
郡
上
関、
大
島
郡
安
下
庄
へ
の
砲
撃
を
以
て
開
戦
す
る。
慶
応
二
年
六
月
七
日
(
新
暦
七
月
十
八
日
)
の
こ
と
で
あ
る。
「
四
境
の
役
」
の
開
戦
し
た
町
に、
私
は
生
ま
れ
た。
ふ
る
さ
と
は、
その地名を聞くだけでも懐かしい。どんな小さい出来事でも、
ふるさとの事として、
何かしら価値がある。そ
ういうご縁に引かれて、史料本位に、幕末の周防大島の出来事を追ってみた。
六
月
十
一
日
に
は
久
賀
に
幕
府
軍、
安
下
庄
に
松
山
藩
軍
が
上
陸
し、
大
島
は
占
領
さ
れ
る。
応
戦
を
決
断
し
た
長
州
藩
の
命を受けた高杉晋作は、十三日の夜明け前、丙寅丸で久賀沖の幕府軍艦に夜襲を掛ける。
高
杉
が
指
揮
す
る
丙
寅
丸
の
機
関
士
と
な
っ
た
の
が、
土
佐
藩
の
田
中
光
顕
で
あ
る。
海
戦
の
翌
年、
慶
応
三
年
四
月、
高
杉
が
病
に
倒
れ、
田
中
は
中
岡
慎
太
郎
の
陸
援
隊
に
参
加
す
る。
さ
ら
に、
十
一
月、
中
岡
が
坂
本
龍
馬
と
共
に
暗
殺
(
近
江
屋
事
件
)
さ
れ
る
と、
副
隊
長
と
し
て
同
隊
を
率
い、
鳥
羽・
伏
見
の
戦
い
で、
高
野
山
を
占
領
し
て
徳
川
御
三
家
の
紀
州
藩
を
威
嚇する。その頃の「錦の御旗」の話が、彼の「維新風雲回顧録─高野山の籏あげ」にある。
同年十二月、王政復古の号令の後、陸援隊は「錦の御旗」を下賜され。大阪追討の勅命を受ける。
「
こ
の
時、
斉
原
が
持
参
し
た
錦
旗
と
い
う
の
は、
幅
八
九
寸、
長
さ
ほ
と
ん
ど
一
丈
余
(
幅
三
十
セ
ン
チ、
縦
三
メ
ー
ト
ル
)
、
両方に金銀の日月をあしらったもので、白綾の
帛
ふ
く
さ
紗
に包んであった。
こ
の
一
旒
の
旗
が、
さ
っ
と
ひ
ろ
げ
ら
れ
た
刹
那、
な
み
い
る
一
同
は、
涙
を
流
し
て
喜
ん
だ。
こ
の
御
旗
は、
も
と
長
州征伐の際、
作られたものであった。それが不用となっていたのだが、
端なくも、
今われわれの手へ下し賜っ
たわけである。不思議な因縁である。
」
慶応四年、この陸援隊が京都に凱旋した時のことである。