– 2 –
け
の
文
書
に
残
っ
て
い
る。
(「
大
島
町
誌
幕
末
の
大
島
戦
」)
そ
こ
に
は、
外
国
船
が
来
港
し
た
場
合
の
対
応
法
が
こ
と
細
か
く
指
示
さ
れ
て
い
る。
役
所
へ
の
状
況
の
報
告、
た
だ
ち
に
勘
場
役
人
や
農
兵
等
を
招
集
し、
炊
き
出
し
の
準
備
を
す
る
こ
と
等
々。
武士だけでは各地の海防はできない。
身分に関わらず編成する諸隊によって海防の力を付けねばならないとい
う
時
代
が
来
て
い
る。
長
州
は
い
ち
早
く
そ
れ
に
取
り
組
み、
周
防
の
国
大
島
に
も
農
兵
諸
隊
や
僧
に
よ
る
隊「
護
国
団
」
が
編成され、各地で稽古が始まっている。
外
夷
か
ら
国
を
守
る
と
い
う
の
が、
諸
隊
の
出
来
た
初
め
の
理
由
で
あ
っ
た
が、
慶
応
年
間、
長
州
が
幕
府
と
対
決
す
る
路
線を決定したことから、当面、諸隊は対幕府の戦力となっていく。
四
境
の
役
の
開
戦
前
夜
は、
文
久
三
年
の
攘
夷
の
決
定、
長
州
の
外
国
船
砲
撃、
政
変
と
七
卿
の
都
落
ち、
禁
門
の
変、
第
一次幕長戦争、四国艦隊の下関攻撃と歴史が動く。
「
安
政
六
年
か
ら
万
延
が
一
年、
つ
ぎ
の
文
久
の
三
年
間
と
元
治
の
一
年
合
わ
せ
て
四
年
間
(
計
五
年
間
)
は、
防
長
両
国
浮
沈
の
千
変
万
化
の
時
代
で
あ
っ
た。
藩
主
は
固
よ
り
我
等
庶
民
の
先
祖
が
波
瀾
重
畳
の
世
に
処
し
た
苦
心
と
偉
功
は
忘
れ
て
は
な
ら
ぬ歴史である。
」
(同前)
西安下庄三ツ松
長州藩士「伊藤直衛日記」
毛
利
藩
士
伊
藤
直
衛
は
江
戸
や
徳
山
で
の
勤
め
の
合
間
に
大
島
郡
安
下
庄
村
の
三
ツ
松
東
に
在
住
し、
安
政
二
年
か
ら
大
島
郡
各
地
の
諸
隊、
久
賀
に
あ
っ
た
大
島
宰
判
の
勘
場
(「
宰
さ
い
ば
ん
判
」
と
い
う
行
政
区
画
ご
と
に
一
つ
ず
つ
お
か
れ
た
毛
利
藩
の
役
所
)
の
隊
や
護
国
団
の
稽
古
を
指
導
し
て
い
る。
伊
藤
直
衛
は
毛
利
藩
御
手
回
り
組
(
藩
主
の
側
役
を
す
る
武
士
集
団
)
の
藩
士
で
あ
る。
伊